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2016年10月06日

発達障害児に対する日本の教育は間違っている!? 栗原類 「アメリカでの出会いと経験が、今の自分につながった」【インタビュー前編】

提供元: ダ・ヴィンチニュース

栗原類

 昨年、ADD(注意欠陥障害)であることをカミングアウトし反響を呼んだ栗原類さんが、自伝『発達障害の僕が輝ける場所を みつけられた理由』(KADOKAWA)を発売した。日本の保育園では問題児扱いされ、母とニューヨークに移住した8歳のときにADDと診断。小5で帰国後してからの学校生活は地獄で、中学ではいじめや不登校を経験、高校受験の失敗など紆余曲折を経て、芸能界で輝ける場所を見つけられたのはなぜなのか? 本人に話を伺った。 

――ADDの特性で、栗原さんの場合はこだわりの強さ、感覚過敏、注意力散漫、記憶力の弱さ、コミュニケーション問題などが幼少期から顕著だったということですが、そのことで困ったり苦しんだりしたことは覚えていますか?

栗原類さん(以下、栗原) そういったことは今もありますけど、困ったり苦しんだりというよりはイヤな気分になるんです。子どもの頃のことは自分ではほとんど覚えてないのですが、小さい頃から物音にすごく敏感で、保育園で怒鳴るように歌う子どもの声に耐えきれずに耳をふさいでしゃがみ込んだり、教室から逃げたりしたこともありました。

 そのとき先生は僕ではなく親に対して、みんなと楽しく歌うことができない情緒のない子だと言いました。そういうことが日常的にあったので、母親のほうが悩んだり苦しんだりしたんじゃないかなと思います。

――それでもお母様はいつも栗原さんの味方でしたね。

栗原 母は自分ができることを子どもに要求する人ではないので、僕が叱られたり責められたりすることはありませんでした。1歳から毎年1カ月ほど、ロンドンやニューヨークの保育園に通ったこともよかったと思います。なぜなら海外の保育園は、集団でやることを無理強いしませんし、人と同じことができなくても冷たい目で見られることもなくやさしく接してくれるからです。

 たとえば僕が通っていたニューヨークの保育園は、元気に楽しく歌うのではなく正しい歌い方を教えてくれました。上手く歌えない子には「こういう風に歌うんだよ」と教えてくれるので、わざと大声で歌う子なんていませんし、僕も一緒に歌うことができたんです。でも日本の保育園は、ただ元気に歌えばいいという感じで、耳障りな歌い方をする子がいても注意しません。母もその違いがわかっていたので、アメリカではこうだったと先生に話したら逆ギレされたんです。僕は今でもあのときの保育園の教え方は間違っていると思っています。もし僕が自分の子どもの保育参観に行って、聞くにたえないような歌い方をしている子どもがいたら、逃げ出したくなると思います。


――5歳から移住したニューヨークでの生活が、栗原さんにとても大きな影響を与えています。

栗原 英語が上手く話せるわけではないのに、ちゃんと自分のレベルに合った対応をしてくれるのがまずありがたかったです。授業についていけなくても、同じような英語のレベルの子どもを2、3人別の教室に集めて、わからないところを教えてくれました。そういう細やかなフォローがあったからアメリカの保育園や小学校には楽しく通うことができましたし、先生が子どもたちを真剣に見ているとすごく感じました。

 たとえば向こうでは生徒同士のケンカなどトラブルが起きた場合、先生に伝えることが当たり前です。先生は生徒のトラブルを解決する義務があるので、どんなに忙しくても生徒ひとりひとりに向きあって対応していました。でも日本の小学校は、僕がほかの子から暴言を浴びたことを先生に伝えて助けを求めても「わかった」というだけで何もしてくれません。相手からは「チクるんじゃねーよ」と脅されることの繰り返しでとても辛い日々でした。

――ニューヨークで出会った先生は栗原さんとしっかり向きあって、今の活動につながるきっかけを与えています。

栗原 向こうの小学校の担任だったサンドラは、一番影響を受けた先生です。僕は冗談が通じないほど真面目で非常に扱いにくい子だったと思うんですが、その僕に笑うことの素晴らしさを教えてくれたのが彼女でした。母はそのアドバイスを最初は意外に思ったみたいですが、友人たちに聞いて『サウスパーク』のDVDボックスを買ってきてくれたんです。それにはまってコメディ番組も見るようになったことが役者を目指すきっかけになりました。

――お母様も栗原さんの興味や好奇心をくすぐる経験をたくさんさせていますね。

栗原 音楽や映画は、音楽ライターをしている母が好きだったものを観たり聴いたりしているうちに、結果的に好きになったものが多いです。子どもの頃からUKロックとか普通に聴いていましたね。音に敏感でしたが良質な音楽は受け入れられました。また、大人が見るような映画も子どもの頃から一緒に観ていましたし、旅行にもよく行きました。そういった経験のひとつひとつを具体的に覚えているわけではないんですが、無意識のうちに世界観が広がっていったように思います。

――8歳のとき『ファインディング・ニモ』を観て、ニモと似ている自分のことをお母様と話したことで障害を自覚するようになったとあります。それから自分のなかで何か変化はありましたか?

栗原 自分は発達障害なんだと思うきっかけになりましたけど、普段そのことを意識することはありませんでした。ただ、『ファインディング・ニモ』は僕がはじめて自分から感想を言った映画なので、無意識のうちに自分の障害に感づいていたんじゃないかなと今は思います。でも、だからといって大きく変わったことはなかったです。ただ自分は発達障害なんだと受けとめるしかなかったんだと思います。

――発達障害がある子どもの親御さんは、不安や心配から過保護になるケースも多いと思います。その点、栗原さんのお母様は人に迷惑をかけないためのしつけは厳しかったようですが、他はかなり自由奔放ですね。

栗原 家のルールはすごくゆるかったほうだと思います。子どもには普通、門限があると思いますけど、うちは門限もありませんでした。夜、友だちと遊ぶような年になったとき、「酒とかタバコとか、警察沙汰になるようなトラブルには気をつけて」と言われるぐらいでした。

 セックスや暴力や差別的なブラックユーモアが出てくる映像も、禁じることはありませんでした。そのかわり不適切な表現については「こういう意図があって作られているんだよ」と解説してくれたり、僕がわからないことについてはよく話し合いました。そういうこともすべて親子で共有できたのはすごくよかったと思います。動物虐待の映像に比べたら、エロなどかわいいものだというのが母の持論でした。ゲームも好きなだけやらせてくれてYouTubeも見たいだけ見せてくれたので、学校以外の時間はずっとハマっていた時期もありました。

 でもいま振り返ってみると、勉強に関してはもうちょっと厳しくしてほしかったという思いがあります。僕は勉強が苦手だったので、「他の子は塾にいって夜遅くまで勉強しているけど、私はそこまで要求してないよね。なんで最低限のこともやらないの?」というようなことは、耳にタコができるほど母から言われました。でも「いい成績をとれ」とか、僕を追い詰めることはしなかったんですね。それで結局、高校受験に失敗したので、もっと勉強しておけばよかったと後悔したんです。母親も同じく「もっと厳しくすればよかった」と思ってるみたいですね。

取材・文=樺山美夏 写真=内海裕之
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